このショートショートは、労働判例を参考に、物語仕立てにした作品です。

「もう、ほんっまマジで最悪やわ〜」

再会を喜ぶ会話を終えると、男は一気にグラスの中身を飲み干した。彼の名は吉野。

「……ビールみたいに飲むなよ」

出張で京都を訪れていた大山は、大学時代の友人である吉野に、半ば強引に居酒屋へと連れて来られた。
乾杯をした後で、吉野の口から出た言葉は相変わらずで、大山は思わず苦笑を零す。

「それ焼酎だろ。一気飲みすると悪酔いするぞ」

大山の手元には、ビールジョッキが鎮座しているが、吉野の手元にあるのは、淡いグリーンの焼酎グラス。
もちろん既に空っぽで、氷がグラスに触れる清涼感のある音がした。
一杯目は『とりあえずビール』が定番だが、吉野は違う。発泡系のアルコールが苦手な彼は、いつも乾杯の時から、焼酎を頼んでいた。もちろん誰よりも酔うのが早い。
学生時代から何も変わっていない友人を前に、大山の口からは忠告ひとつ。

「うるさいな〜!仕事してたら飲み潰れたい日もあるやろ?大山は無いんか?それにな、俺くらい苦労性なら、毎日飲んでも許されるわ」

店員に2杯目を注文すると、唐揚げに添えられたカットレモンをひとつ手にする。そして、自らの取り皿にソッと搾った。自由奔放で人懐っこい男だが、こんな配慮が出来るところを大山は好んでいる。

「今は大学で研究しながら講師をしてるんだろ?どこの大学だっけ?学生の世話は大変そうだな」

大山は地元特産の紫枝豆を口へ運びながら、話を振った。
呼び出した理由のひとつが、仕事のストレス発散と言う名の愚痴飲み会なのは間違いないだろう。大手企業の人事部で課長をしている大山なら、人材としても適切だ。

「講師はおもろいし、研究も楽しいわ。ちゃうねん、問題は人間関係や。聞いてぇな、人事部大山課長〜!ほんまマジで最悪やってん」

大山の質問をスルーしたのは、大学名を出さない事で、出来る限り個人情報や守秘義務に抵触しないよう配慮したのだろう。
機嫌良く唐揚げを飲み込むと、運ばれたばかりのグラスへと口付ける。

「あ〜人間関係、ね。どこの職場も色々あるんだよなぁ」

転職して東京の上場企業に勤務する大山は、昨年あった職場でのトラブルを脳裏に描いた。
他部署の上司と部下の職務上の揉め事が、暴行事件にまで発展したのだ。しかも現場は職場の休憩室。パワハラ事件によって、精神的に参ってしまった部下の男は現在も休職中。
裁判にまで発展しそうな状況に陥っている。

「とある大学のとある教室のトップである教授が退職してん。そんで他の先生が教授職に応募したんやけど、反対派が出てな。結局はその先生が教授になってんけど、未だに教授派と反教授派の対立が酷くてなぁ。『どっちに付くんや?』って、中立派の俺まで責められそうになるし最悪や。仕事させてくれや!」

「うわ、それはきつい。周りの教職員も仕事がやりにくそうだな。総務とか人事とか」

どこの職場でも人間関係は複雑だ。
特に昨今では、パワハラやセクハラ、マタハラ
にアカハラと言ったハラスメントが乱立している。
理解ある職場や上司なら、早い段階で毅然とした態度で処理するが、中々に難しい。
そもそも上司が理解せず、無意識のうちに発言や態度で相手に不快感や不利益を与え、尊厳を傷つけている場合もあるのだ。
事業主は対策措置を講じる必要もあり、対応を誤ると、当事者である個人だけで無く事業主側も法的責任を追求されてしまう。

「せやろ?誰がやったか分からんけど、教授に対しての誹謗中傷めいた怪文書も出回ってん。反対派率いる女性も教授を教授として扱わず、えらい酷い言動で接してたしなぁ。教授も毅然とした対応すりゃええのに、真っ向勝負に出て応戦や。あんま詳しいことは言えへんけど、反対派の女性の席に廃液を置いたり、応募資格が無いん知っていながら他の大学の応募を勧めたり、出張や有給取得の妨害したり、堪らんで。どっちもどっちや。職場やで?仕事せぇって感じやろ?」

刺身醤油に山葵を溶いている大山の手元をジッと見る吉野の目は、随分と疲れ切っていた。

「それで?そっちの人事部は動いたのか?」

(業務上、守秘義務はあるものの固有名詞を出していないから、良い……のか?)
ボンヤリと考えながら、大山は話を振る。

「動くも何も、裁判にまで発展したわ。大学側も雇用者責任を追求されてドンパチなっとる。俺も色々と聴かれるし、仕事どころや無いで。研究室の予算面で不満もあったけど、これを機に次年度で京都の大学へ転職する事にしてん。次は私立やで。予算が潤ってるから、ほんまありがたいわ〜」

次いで吉野は、全国的にも有名な私立大学の名を口にした。その言葉に、大山は咀嚼を止めて飲み込んだ。唖然とした表情で箸置きへ箸を戻し、喉をビールで潤す。

「お前、それマジ?転職??」

「ああ。人間関係のドタバタで思うように仕事できひんのは嫌やん」

職場が嫌での転職。
予算の不満があったものの、切っ掛けは今回の職場でのトラブルなのは間違いない。
学生時代から吉野を知っている大山は唖然とした。彼は昔から優秀だった。単に頭が良いだけで無く、応用力がありセンスもある。それに周囲への気配りも上手く、人間関係の調整役としても優秀だ。
学会での発表も評判が良く、専門誌へコラムも連載されていると、別の同期から聞いている。
もし大山が彼と同じ職場で人事部だとしたら、退職を必死に止めただろう。それほどに職場へのダメージは大きい。
ハラスメントによる裁判、マスコミの報道、それによる企業への影響。売り上げ、株価等多岐に渡ってマイナスイメージなのは間違いない。その上、良い人材が去っていく。
ちょっとした人間関係のトラブルがハラスメントへと発展し、優秀な人材の流出に繋がるなんて恐ろしい。とんだバタフライ・エフェクトだ。

「恐ろしいな、ハラスメントって」

ぽつり呟いた大山とは裏腹に、分かっているのか、いないのか吉野は「せやろ〜?」と朗らかに頷いた。

参考:奈良医大アカデミックハラスメント事件
助手が教授から数々の嫌がらせを受けたとして、教授と県を相手に損害賠償請求を行った事件。
第一審は5件の嫌がらせが認められた。
この後、控訴審では、嫌がらせのうち1件が認められ1件は時効、3件はハラスメントに当たらないとされた。

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