このショートショートは、労働判例を参考に、物語仕立てにした作品です。
「大泉課長補佐、今年の研修テーマはどうするんです?」
会議室でも現場でもなく、事件は仕事中に発生した。発端は、係長の小泉による、ちょっとした問い掛けだ。
「え、今年の?前年度に使ったのと同じのにするけど?」
年に一度、階層別に行われる人事研修について問われ、そう答えた。階層別のため、前回と同じ研修に出席した社員はいない。
「本気ですか?あれをそのまま?」
「うん」
問題があると思っていない大泉は、キーボードを打つ手を止めず視線だけを小泉へ投げ掛ける。
「いや、せめて更新して下さい。既に控訴審の判決が出てますよ」
全く同じ内容でも差し障りない。
そんな安易な考えを小泉は一蹴する。
「えー何だよ。同じ資料を使えたら楽……いや、良い事例だと思ったんだよ。講師担当者もやりやすいだろうし」
「そんなに気に入ったなら、新しい判決を元に一新されてみればどうですか?」
「え、今から?」
リズミカルな音を立てていたブラインドタッチが途端に乱れる。
「そう、今から」
既に自身の業務がひと段落している小泉は、シアトル系コーヒーショップのタンブラーを口へと運ぶ。
「他にも業務あるんだよ。参考文献のあたりに判決日現在って入れておけば良くない?」
有能ゆえに余裕のある部下の姿に、大泉は胸中で盛大に舌打ちをした。
「良くないですね。古い判例を使ってあなたが恥をかくだけならまだしも、課長にも迷惑がかかりますよ」
課長を尊敬している大泉を動かすには、最適な言葉だ。大泉の顔は、一瞬のうちに不愉快極まりない表情へと変化する。
「やります、やりますよ。そこまで言うなら、小泉係長も手伝ってくれるんだろうね?」
「ご安心を。いま争点部分の概要をメールでお送りしました。内容をご確認下さい」
受信ボックスにメールが増える。
既に目処が付いていたはずの仕事が、突然リセットされ振り出しへと戻された。
「はいはい。ありがとうございます」
感情の篭らない声でお礼の言葉を呟くと、受信メールをクリックした。
【損害賠償請求控訴事件】
大阪高等裁判所判決……
1,争点
(1)出張妨害→パワハラ
控訴人は、被控訴人乙が控訴人の出張要請を承諾しなかったことが、出張妨害に該当すると主張。
しかし、原審における被控訴人乙によれば、当時被控訴人乙は、控訴人の研究に関する実験は出張を行わずとも可能であるとの認識であったと認められる。
また、当時控訴人が出張の必要な研究について被控訴人乙に報告していたと認めるべき証拠もない。
被控訴人乙の行為によって控訴人の研究に具体的な支障が発生したと認めることもできない。
(2)私物の移動→パワハラ
控訴人は、第二研究室の控訴人の私物を第六研究室に移動させたことが違法であると主張する。
しかし、既に会議において留学生のスペースを第二研究室の前室にすることが決定され、控訴人もこれを了承していた。
また、控訴人は机の上の私物は片づけたものの、机の下にはそのまま控訴人の私物が置かれた状態になっていたものであるのは既に認定した。
控訴人は当審において、前室部分を「明け渡す」ことまで同意していないと主張するが、訴状においては明け渡すことについて了解していたとの記載があり、一貫していない。
控訴人が明渡しを了解していた留学生の専属スペースに、控訴人の私物が放置されている状況が続くときは、留学生の研究執務に支障が出ることも十分予想される。
私物移動に至った前認定の経緯をあわせ考慮するときは、控訴人の不在時にこれを行ったことの当否は別として、これを違法な嫌がらせとまではいうことができない。
(3)研究費配分→パワハラ
講座研究費の配分については、原則的に当該教室の自主的な決定に委ねられていると解される。配分の具体的方法については、これを各教室員の頭割りとする、研究実績に従って配分する、出勤状況に応じて配分する等の様々な方法が考えられるが、特に合理性を欠くものでない限り、第一次的には当該教室の決定を尊重するべきである。
出勤状況に応じて講座研究費を配分することの合理性が、単なる頭割り配分に比べて合理性が劣るものとは考えられない。
また、本件講座研究費配分の決定は、 控訴人が欠席した会議において、控訴人を除く教室 員全員の合意によって決定されたものであるが、被控訴人乙は同会議の終了後、直ちに「教室会議報告事項」としてこれを控訴人に報告しており、当該報告書には「詳細について質問があればおいで下さい」との添え書きがあった。
しかし、控訴人においてこれに対する異議を述べた形跡がないこと、本件講座研究費配分の決定は結果的に実施されることがなかったことなどの事情を考慮し、講座研究費を出勤状況に応じて配分することを決定したことが、嫌がらせであるとは認められない。
(4)公募書類周知→パワハラ
他大学の公募書類は、被控訴人乙の就任後、年間一〇〇件程度のものが教室に配布されており、被控訴人乙においてはその都度、教室員の適性を考慮して教室員にこれを周知させてきた。
この過程において、被控訴人乙が、控訴人について他の教室員と異なる扱いをしたと認めるべき証拠はない。
このような他大学の公募書類の開示が、被控訴人乙公務であり、そのこと自体違法行為をもって論ぜられるべきものでないのは明白である。
従って、応募書類を控訴人に渡すに際し、控訴人の不在の時にはこれを机上に置いたり、あるいはその際に応募を薦めるメモを添えたりしたことをもって、これが違法になるとは解せられない。
控訴人はこれら公募講座について、自らの専門でない、前提となる資格を有しない、等のことからこれを嫌がらせであると主張するが、控訴人の専門外であるという点についてはこれを直ちに認めがたい。
また、応募要件を欠く公募書類の提示については、確かに採用可能性まで考慮に入れると必要性・相当性の面で問題がないとは言えないが、情報の開示自体は寧ろ教室主任の責務である。
もちろん、現実の応募をするかしないかについては全面的に教室員の自由に委ねられており、被控訴人乙が控訴人の場合に限って、執拗に応募を薦めるなどの事情も認められない本件においては、これを違法とまで認めることはできない。
(5)兼業申請書押印拒否→パワハラ
被控訴人乙は、控訴人の兼業承認申請に押印しなかったのは、控訴人から提出された兼業承認申請に記載の時間数が三転したことについて説明を求めたのにもかかわらず、控訴人が応じなかったためであると主張する。
しかし、この件についての話し合いを録音したテープの反訳書によれば、控訴人は会談において、兼業承認申請書中の兼業時間が変転したのは講義時間数の減少が原因であることを一応説明していると認められる。
他方、被控訴人乙は、いわゆるリアルスケジュール(新学期が始まる直前に大学において作成される行事予定表)の持参にこだわって、控訴人の説明を受け付けなかったものであると認められる 。
リアルスケジュールは、三月の時点においては未だ作成されていないものである。そのような書類の提出にこだわって兼業承認申請への押印を拒否するのは合理性を欠くものであるのが明らかであり、 嫌がらせの要素があると推認できる。
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「え、これ結果的に賠償額は10万円になったの?」
老眼が始まっているのか、眼精疲労なのか、一読し終えた大泉は目を瞬かせている。
次いで、隣のプリンターがメール文を印刷し始めた。
「はい。あと弁護士費用は1万円が相当となりました」
大泉が黙読中、手元の判例集をパラパラと眺めていた小泉は淡々と相槌を打つ。
被控訴人乙の兼業申請押印拒否の経過及び影響、これに至るまでの控訴人の対応等、諸般の事情を考慮した結果、控訴人の精神的苦痛に対する賠償額は10万円だ。
「10万円かぁ。一審より減額されたね。印象も違いすぎて混乱するよ」
「そうですか?」
「そうだよ。出張妨害や私物の移動はパワハラだと思ったんだけどなー。パワハラか否かの判断って難しいねぇ」
「控訴人も被控訴人も今までの人間関係の中で対立していたようですし、積もり積もって拗れたんでしょうね」
「もっとお互い歩み寄って、コミュニケーションを取っていたら誤解も生まれなかったのにね。例えば『現時点では来年度の行事予定表は作成されていません。作成後は速やかに送付下さるよう作成部署には連絡済みです』って伝えるとかさ」
「まぁ、それすら難しいくらい合わなかったのかもしれませんけど。人間関係の拗れがパワハラに繋がりやすいので、人事部としても気を付けたいですね」
「まぁ、僕くらいになるとパワハラとは無縁だけどね。部下や他部署には気を配らなきゃ」
自分には関係ない事と思っているのか、大泉はやけに呑気だ。
プリントアウトした資料にマーカーを引きながら、うんうんと頷いている。
「そうですか?大泉課長補佐も気を付けて下さいよ。『あいつが間違っている。自分は正しく指導している』なんて思っていても、その認識が誤りの場合ありますから」
「怖いこと言わないでよ、小泉係長」
ギョッとした表情で顔を上げると、大泉は盛大に溜め息を吐き出した。
参考:奈良医大アカデミックハラスメント事件
助手が教授から数々の嫌がらせを受けたとして、教授と県を相手に損害賠償請求を行った事件。
第一審は5件の嫌がらせが認められた。
この後、控訴審では、嫌がらせのうち1件が認められ1件は時効、3件はハラスメントに当たらないとされた。