このショートショートは、労働判例を参考に、物語仕立てにした作品です。

社員食堂の片隅でランチを摂っていた大山は、どこかで聞いた話題を耳にして、思わず顔を上げた。
彼の視線の先にあるテレビでは、現代社会の事象をテーマにした番組が流れている。
午後の時間帯にしては珍しい内容だ。

『……ハラスメントの一種である、アカデミックハラスメントについて、有名な裁判をご紹介します。……大学の事件は……原告側の請求を一部棄却し……』

今回のテーマはハラスメントのようだ。

「ああ、あの裁判か」

数年前に大学時代の友人から聞いた、アカデミック・ハラスメントの裁判にも触れている。

「あの裁判?なんかありました?」

大山の前でカレーを食べていた部下である係長の大泉が口を開いた。

「関西の大学であったアカデミック・ハラスメントの裁判ですよ。ご存知ありません?」

どこか挑発気味な言葉を返したのは、同じく部下の小泉主任だ。ラーメンで曇った眼鏡を拭きながら、隣に座る大泉へ視線をやった。

「知らないなぁ。詳しいなら教えてくれよ」

大泉は気にせず解説を催促した。

「アカデミックハラスメントを行った教授に対して、部下が不法行為に基づく損害賠償を請求した事件です。勤務先が県立大学だったから、県に対しては国家賠償法1条に基づいた損害賠償と、原告である教授の雇用者としての立場から雇用契約上の義務違反による債務不履行に基づいても損害賠償請求がされました」

「詳しいな、小泉」

黙って聞いていた大山は、部下の意外な一面を前に感嘆する。

「人事部の主任として、労働関係の話題は注目してます。直接的には関係ありませんけど、アカデミックハラスメントは興味深い事案なので」

視野を広く持つ部下の発言に、大山は笑みを深めた。

「小泉はすごいな」

傍らで話を聞いていた大泉は気を悪くした様子もなく、ただただ感心している。
そして、会社から至急されているモバイルを取り出すと、契約している法律関連のサイトを開いた。

「たしか国家賠償法1条って、国や公共団体が公務員の違法行為についての賠償責任を負って、違法行為を行った公務員個人には責任を負わせない……って条文だよな?」

行儀が良いとは言えないが、スプーン片手にモバイルを覗き込みながら、関連の情報をサーチしていく。

「そうです。だから教授個人に対する請求は棄却されました」

「それなら、県が全面敗訴?」

チラッと見詰める大泉の視線を受けて、小泉は箸を置く。どうやら食べ終わったようだ。身体を寄せると、モバイルへ視線を移す。

「ああ、ここです」

隣からモバイルを覗き込む小泉の指先が、細かな文字の判例の中から該当の箇所を拾い上げた。

「県に対する国家賠償請求について、幾つかは権限内の行為とされました」

モグモグと口を動かしカレーを食べながら、大泉の目は文字を追う。

【……研究室内にある原告の私物を移動させた行為や講座研究費を出勤状況に応じて配分すると決めたこと、他大学での兼業承認書類に押印しなかったこと等は違法となった。
これらは公権力を行使する被告公務員が職務上行ったものであり、被告県は賠償責任を負う……】

「ああ、この部分が、国家賠償法1条に当たるのか」

「ここから先は、雇用者としての義務違反についてですね」

【……被告県は被用者である職員に対し、勤務に従事する際には生命や身体等に危害を受けないよう、職場環境を配慮する義務を負う。
ただし、義務の発生および具体的内容については、当該職員の職種や状況等により異なる。そのため、当然に被告県に原告の教育・指導や学問・研究に重大な支障を来す事由の発生を防止し、支障が発生した場合に速やかに対処して支障を除去する義務があるとまでは認められない。】

「なる、ほど?」

分かるような分からないような、何とも言えない表情で食事を終えると、大泉は湯呑みへと手を伸ばす。

「ここも要点ですよ。違法行為の是正が必要な義務が発生していたと言うためには、具体的な事情を県が把握している必要があります」

「雇用者としての義務違反は認められなかったのか」

労働裁判について仲良く論じる二人の部下を見守っていた大山だが、つい口を挟んでしまった。彼としては、国家賠償に関してより、雇用者としての責任の方が興味深い。

「ええ、このケースでは、県に違法行為の認識はなく、義務違反を認めることは出来ないとなっています」

小泉は、大泉の持つモバイルから大山へと顔を動かし頷いた。

「被告の県に対して、慰謝料50万円の支払いと弁護士費用、か。意外と低額な慰謝料だな」

「教授のハラスメントは長期間続きましたが原告の研究に具体的な支障は無く、先に原告が教授に対して嫌がらせをしたり職務上の手続きを守らなかった事が発端となっているのがポイントのようです」

「なんか、痛み分けって感じだなぁ」

冷めてしまったお茶を飲み干した大泉は、まるで当事者さながらに疲れ切った声で呟いている。

モバイルで、大学側のコメントや今後の予防措置等についての記事をサーチしていた大山は、友人の言葉を思い出していた。

「ある意味、雇用者側のデメリットの方が大きいかもな。内部調査や裁判への対策、マスコミ対応、職場環境の改善義務も発生するし、今回のように被告が県立大学だと入学希望者も減るかもしれない。世間からの風当たりも強くなる。イメージの失墜は確実だ。それに、こう言った事件を切っ掛けに優秀な人材が流出する」

この大学に勤めていた友人は、事件を切っ掛けに転職した。今では違う大学で准教授として働いている。優秀な人材が減ったのは間違いない。

「そうですね。社内でのトラブルや職場環境に目を配り、日頃から働きやすい環境を整える事が大切ですよね」

数年前に発生した職場内の暴行パワハラ事件を思い出し、奇しくも彼らは揃って溜め息を吐き出した。

参考:奈良医大アカデミックハラスメント事件
助手が教授から数々の嫌がらせを受けたとして、教授と県を相手に損害賠償請求を行った事件。
第一審は5件の嫌がらせが認められた。
この後、控訴審では、嫌がらせのうち1件が認められ1件は時効、3件はハラスメントに当たらないとされた。

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